はじめに
今回のインタビューは江井ヶ嶋酒造の現役杜氏、かつウイスキー蒸留所長で、日本酒づくりもウイスキーづくりも手がけていらっしゃる中村裕司さんに、彼の生涯とウイスキーへの想いについてインタビューをさせて頂きました。
全3回に及んだ今回のインタビュー、中村さんがなぜお酒づくりに目覚めたのか、何を想いお酒と向き合い続けるか。その本質を探っていきたいと思います。ぜひお楽しみください!
1.ずばり、中村さんってどんな人?
ーー本日はよろしくお願いします。まず簡単に、中村さんの来歴を教えていただけますでしょうか。
江井ヶ嶋酒造にて、日本酒の杜氏、およびウイスキーの蒸溜所長をやっています。
ウイスキーに関しましては、自分は現場の担当という形で動いていまして、ブレンダーはどちらかというと社長がやっています。今年でちょうど入社6年目ですね。
ーーありがとうございます。日本酒とウイスキーという二種類のお酒をつくらているということで、お話を聞けるのをとても楽しみにしていました!中村さんは学生の頃からお酒づくりに興味があったのですか?
そうですね、遡ると、学生時代はバーテンダー、レストランなどお酒関係のバイトをよくしていました。そういった経験から、お酒に関わる仕事がしたいなあという漠然とした思いがあり、就職活動では大手酒類メーカーを希望していたのですが、残念ながら受からず、初めは希望ではない会社に入社しました。
ーー最初からお酒に関わる仕事をしていたわけではなかったのですね。
そうなんです。しかし、そこで働き始めた頃は自分でお酒をつくるなんてあまり考えてもいなかったのですが、「夏子の酒」という漫画の影響をうけて、自分でもやってみたい、やるからにはつくりたいという想いが芽生え始めて、お酒づくりの世界に飛び込むことを決めました。
25歳の時に会社をやめ、飛び込みで新潟の清酒会社へお酒づくりの修行をしに行きました。「夏子の酒」の舞台が新潟だったこともあり、電話一本で雇ってもらい、単身で修行しに行きました。
ーー素晴らしい行動力ですね。普通の会社員からお酒づくりの世界へ飛び込むことってよくあるのですか?
かなり珍しいと思いますね。よくこの仕事を選んだねと言われることも多かったのですが、僕からしたらケーキ好きな子がケーキ作るためにパティシエ目指してみようかなって思うことと同じイメージだったんです。
だからその当時は杜氏になろうということもなく、ただお酒が好きだからお酒を自分でつくったら楽しいんじゃないか、世界観が変わるんじゃないかと思ったのがお酒作りの世界へ飛び込む最初のきっかけでした。
その後はもともと関西出身だったこともあり、奈良のほうで、今は亡くなってしまった杜氏の後継として杜氏になり、15年ほど在籍しました。
また、心の中では出身地である兵庫に帰りたいという想いがあり、ちょうどそのとき江井ヶ嶋酒造の杜氏が引退するということを耳に挟み、お話を聞きにいったんです。
そこで、日本酒の杜氏が同時にウイスキーも担当してほしいというお話をしていたんですね。学生時代にバーテンダーのバイトをしたこともあってもともとウイスキーには興味があったので、ウイスキーと日本酒にも携われる仕事に魅力を感じて江井ヶ嶋酒造で働き始めました。
江井ヶ嶋酒造に行くまでは、当然日本酒の杜氏しかやっていなかったのですが、ちょうど6年前のウイスキー需要が延び始めた時期からは、あれよあれよという間にウイスキーばかり造るようになりました。売り上げに関して言えば、現在ウイスキーは在庫が足りないくらい売り上げています。
ーーなるほど、ウイスキーづくりと出会われたのは江井ヶ嶋酒造に所属してからなのですね。
はい。ウイスキーづくり6年目なので、まだまだウイスキー社会から見ると若輩者ではあるんですが、なんとか杜氏の経験も活かしながら日々頑張っています。言うなれば、日本食のシェフが海外料理にも手を伸ばすようなイメージですね。
2.感性を鍛え抜いた修行時代
ーー新潟で最初にお酒づくりに飛び込んだ際にはどんな経験をされたんですか?
長岡にある蔵に5年ほど在籍したんですけれども、そこの蔵の杜氏は当時「黄綬褒章」を受賞しているなど、新潟で3本の指に入る名杜氏でした。やはり名杜氏といわれる人ほど指導も厳しかったのですが、その厳しさの中に身を置いたことが今に生きているという実感はあります。
今では考えられないのですが、泊まり込みの時に、杜氏が箸をつけたものしか食べられないというルールがありました。食べ方にでさえ厳しいルールがあったのを知った時はかなりびっくりしたのを覚えていますね。
ーーすごい徒弟制の世界ですね。現代人が入り込んだら卒倒しそうです。
そうなんですよ。杜氏が右といったら右の世界だったので、機嫌悪いと平気でちゃぶ台ひっくり返したりとかもありましたよ。今そんなことをやったらパワハラになるので流石に私はやったりしませんが、昔はすごかったですね。
昔は面白い例えで、「酒屋か軍隊か」なんて言い回しもあったぐらいです。
なので子どもが悪さをすると「お前なんか大きくなったら酒屋に入れたるからな!」なんて叱られていたらしいとか。
ーー酒屋ってそんなに厳しい世界だったんですね。
会社としても杜氏が言うことは絶対だったので、かなり独特な雰囲気だったと思います。
でもその頃の杜氏からは「俺の時代はもっと厳しかったぞ、お前らの時代は楽になった」なんて言われていたので、これでも時代に合わせてかなりマイルドになっていたのかもしれませんね。
ーー想像もできないです。。新潟で修行を積まれて、30歳で奈良に行かれたとのことでしたが、その奈良の酒蔵には杜氏として移られたんですか?
奈良に移ってから一年は杜氏の下でやっていたのですが、その年に杜氏が亡くなってしまったので、翌年から杜氏になりました。
ーーなるほど。大変な道のりだったのですね。
次回のインタビューでは、杜氏の種類の違いや酒づくりに対する想い、職人として意識していることなどをお伺いした様子をお伝えしていきます。
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主に20代のウイスキーが大好きな若手で構成される編集部です。さまざまな蒸溜所、つくり手、ファンの方々との交流をもとに、これからのウイスキー業界を盛り上げる活動を続けていきます。Twitterも発信中。フォローは以下のアイコンをクリック!
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