久内一と草野辰朗。マルスウイスキーが繋ぐ人の系譜「マルスイズム」とは(第1回/全3回)

はじめに

今回は、本坊酒造マルスウイスキーのつくり手インタビュー企画。
久内 一 チーフブレンダーと草野辰朗 チーフディスティリングマネージャー兼ブレンダーに同時インタビューを行いました!

先輩・後輩、ブレンダーとディスティラー、おふたりの信頼関係。
そんな間柄が垣間見えた今回のインタビューでは、お二人の生い立ちや、
ウイスキーとの出会い、ジャパニーズウイスキーへの想いについて深くお聞きしました。

初回の今回は、チーフブレンダー 久内 一 氏の生い立ちをお届けします。
ぜひご覧ください。

チーフブレンダー 久内一の生い立ち

ーー本日はどうぞよろしくお願いいたします!
2人同時のインタビューはCELLARR初の試みですので、運営も緊張しております。
まずは久内さんから、生い立ちを伺ってもよろしいでしょうか?

人様にお話しするような歩みはしていないのですが、ありのままにお話しします(笑)

私の父は自衛官で、音楽隊に所属していました。
いわばプロのミュージシャンだったので、父はずっと音楽で私とセッションをしたかったようなのですが、運がいいのか悪いのか音楽の才能は皆無だったんですね(笑)

たくさんの楽器にチャレンジしたんですが、挫折しました。
今うまく吹けることと言ったら「ホラ」だけですかね…(笑)

話がずれましたが、私の生まれは青森で、小学校低学年まで青森で生活しました。
小さい頃からスポーツが大好きで、よく学校の裏山で「長靴スキー」や「たらいのそり」をしていました。

久内さん少年時代のお写真(出典:ご本人)

その後は親の転勤で神奈川県横須賀に移り、小学校高学年から高校にかけて、野球、バレーボール、テニスなど色んなスポーツに励んでいました。

ーー好奇心旺盛ですね!ウイスキーへの興味はずっとあったのですか?

ウイスキーより当時はワインでした。高校卒業時の進路決めで山梨大学の発酵生産学科(いわゆるワイン学科)にいきたいと思ったのがきっかけでした。

ーーなぜ山梨に進学を?

父の故郷だったのです。自衛官でずっと転勤族だった父の夢が、故郷の山梨に家を建て家族全員で住むことでした。それで唯一の親孝行として父の夢をかなえるべく、山梨の大学に入り山梨で就職したいと思ったからです。

当時、山梨で最も盛んな地場産業は、ワイン産業あるいは宝飾産業でした。

当時の私は、不謹慎かもしれませんが、「どっちがモテるか」考えたわけです。
その結果、ワインだと。

飲む仕草や奥深さ。あと単純に、宝石などの無機物よりも有機物のワインの方が心も燃えるだろうという理由だったと思います。そのような考えをもとに山梨大学に行ったことが、今酒類業界に身を置くことになった1番のきっかけです。

ーー始まりは「いかにモテるか」だったのですね。
人間らしくてとても親しみが湧きます。大学ではどのようなことを?

正直、大学の勉強よりも社会勉強に一生懸命取り組みました(笑)。

パブでバイトしたり、富士五湖に行って社会人の方とウィンドサーフィンをやったり。

久内さん大学時代のお写真(出典:ご本人)

友人とはよく本坊酒造マルスワインの一升瓶ワインを飲んで過ごしていました。
その当時から、味を感じたり、つくったりすることに興味がありました。

そんな大学生活を過ごし、いざ就職となったときに教授に相談したら、
「あんたみたいなのはマルスワイン(本坊酒造)に行くといい。橘君という面白い人間がいるから鍛えてもらえ。」
と言われてですね。推薦状を書いていただき、本坊酒造への入社が決まりました。

普段、仲間と何気なく飲んでいたマルスワインだったので、そのメーカーの本坊酒造に就職できることは何らかの縁を感じましたね。
それと当時、本坊酒造でもウイスキー蒸溜所を建設する構想があったので、ウイスキーづくりへも関与できることにワクワクしました。

ーー本坊酒造入社後はどのような道のりだったのですか?

入社して最初の10年はワインづくりに徹底的に取り組みました。
それもブドウ担ぎから生産管理までかなりのめり込んでやりました。

2年目から醸造の責任者、3年目から少しずつワインのブレンドにも関わるようになりました。

当時、上司から言われていたのは、「とにかく発酵もろみの味を見なさい」と言われていました。その味によって次の日の作業を決定するんです。発酵を止めるタイミング、ワインを絞るタイミング、温度調整など、ほとんど全ての作業をもろみの味で決めたと言っても過言ではありません。

最盛期には20本以上の発酵タンクがあったのですが、それを朝晩2回ずつもろみの味を見歩きました。昔の話ですが、よくやったなあと今でも思います(笑)。

ーーかなりの時間を要しそうですね…!

技術屋としてのバロメーター

ーー当時からつくり手として意識して磨いてきたことはありますか?

上司だった橘さんは当時の業界で鼻が利く男として有名でした。
当時はよく橘さんに、「利き酒能力を磨きなさい。利き酒能力以上のものはつくれない。」と言われたものです。

彼のベロメーター(利き酒能力:バロメーター)を越えるために、あらゆるものの匂いを嗅いで香りを脳にインプットしていました。

カリフォルニアにてバルクワインの品質チェックを行う久内さん(出典:ご本人)

私は、香りを色で判別することを意識していて、例えば涼しげな感じは緑とか、スパイス系は暖色とか。それを利用して記憶をインプットしていました。

ーーなるほど。面白いですね。

久内:

とにかく香りはいつも意識していました。ワイン以外でも何をするにもです。
例えば家の食卓では、目の前にあるものそれぞれ箸でつまんで、ひとつずつ匂いを嗅いで、食べて、インプットする、ということをやっていました。

それを見ていた家族は「もうやめてください。」と(笑)

「いやこれを鍛えることで早く給料が上がるぞ!」と言いながら続けていましたね(笑)。

ーー
家族に嫌がられても続ける職人としてのこだわりですね(笑)。
そこまでして香味に対する感覚を磨かれていたと。

はい。当時一升瓶ワインを飲んでいたお客さんは、味に関してとても厳しかった。
毎晩同じワインを晩酌で飲むヘビーユーザーばかりでしたので、
ちょっとでも味が変わったりするとすぐにクレームがくるんですね。

ヴィンテージを謳わないテーブルワインですから、この年はブドウの出来が…といった言い訳は一切通用しなかった。持っている種酒でいかに常に同じ味に仕上げていくか。

入社後10年間は、かなりお客さんに鍛えられました。

ーー厳しいお客さんに向けて、毎回同じ味を違う種酒で再現することの苦悩が目に浮かびます。
その後は何をされていたのですか?

はい。その後は、私のつくり手としての考え方に大きく影響した「営業や企画」の仕事をしました。
詳しくお伝えすると…

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