今回は、11月4日に開催された第17回CELLARR SALONのレポート記事を全2編にてお届けいたします。
第17回のテーマは「北海道から生み出される新しい100年」。
今回は北海道で活躍されるお三方をゲストにお迎えしました。
ウイスキーのつくり手だけでなく、原料をつくる農家、製品を飲み手へ届けるバーテンダーといったゲストによる、ウイスキーづくりに限らない幅広い視点から、ウイスキーと地域の賑わいづくりについて語り合う時間となっています。
ウイスキーそのものやウイスキーにまつわるストーリーが好きな方々が集い、ここでしか聞けない話を愉しむウイスキーのオンライン社交場 CELLARR SALON。本日もお愉しみください。
|今回のゲスト
中標津クラフトモルティングジャパン株式会社 代表取締役
佐々木 大輔 氏(以下敬称略)
BAR一慶 バーテンダー/北海道ウイスキー&スピリッツフェス 実行委員長
本間 一慶 氏(以下敬称略)
MAOI株式会社/馬追蒸溜所 代表取締役社長
村田 哲太郎 氏(以下敬称略)
|はじめに
ーーーみなさん、こんばんは。本日もお集まりいただきましてありがとうございます。
本日は「北海道から生み出される新しい100年」をテーマに、北海道の地域性にフォーカスしながらウイスキーづくりや農業、地域の賑わいづくりについて考えていきたいと思っております。
では、ゲストの皆さんから一言ずつ自己紹介をお願いいたします。まずは本間さん、よろしくお願いします。
BAR一慶の本間一慶と申します。本日はよろしくお願い申し上げます。
ーーーありがとうございます。では、スペシャルゲストとして告知ではお名前を伏せさせていただいておりました、村田さんお願いします。
馬追蒸溜所の村田と申します。皆様初めまして。我々、北海道組は、本当にぺちゃくちゃ喋る人たちなので(笑)、今日はよろしくお願いいたします。
ーーーでは大輔さん、お願いします。
こんばんは。佐々木大輔です。今回、中標津クラフトモルティングジャパン株式会社として参加させていただいていますが、本業は酪農業です。有限会社希望農場という農場を経営していて、牛乳の大規模生産をしています。非常に広大な畑を所有していますので、小麦や豆、そして大麦を栽培するということも10年以上前から始めております。よろしくお願いします。
ーーーありがとうございます。佐々木さんは、今日の主役ですね。北海道の大地を見た時に、やはり農業を起点にしながら新しい「つくり」の文化がどう花開いていくかが気になります。自己紹介をしていただいたところで、早速本題に入っていこうと思います。
まずは皆さん、いつも通りですが、乾杯から始まるのがCELLARR SALONでございます。だんだん酔って話しやすくなってからでいいので、どんどん質問したり話に参加したりしてくださいね。本日の最後には、大輔さんの北海道愛に溢れた「北海道ウイスキーフェス」の話にも触れていきたいと思います。よろしくお願いします。
今宵もCELLARR SALON スタートです。乾杯!
|酪農家の息子が「農業」の面白さに気づくまで
ーーー早速なのですが、考えたこともないような取組が北海道で始まっていますよね。大輔さんは、そもそも農家の御子息で「酪農」というものが生まれた時から身近にあったと思います。若き大輔少年が、どうやって今の形で農業を広げていこうとしたのか。その前段を皆さんとしっかり共有しておきたいと思います。
物心ついた頃の話から振り返っていただきつつスタートしたいと思うのですが、よろしいですか。
はい、わかりました。北海道の中標津町というところで、自分は酪農家の長男として生まれました。 中標津町って、本当に北海道の東の端っこですね。畑から国後島が見えるようなロケーションで農業をしています。
僕は今年でもう53歳になったのですが、子供の時は、まだまだ小さな規模の家族経営の農家でした。長男で生まれたので、自然と「農家の跡継ぎ」「後継者」としてずっと育てられてきていました。自分も子供の頃は「まあ…将来は農家をやるんだろう」としか思っていませんでした。
ただ、高校生ぐらいになった時、急に「こんな大変な仕事は自分にはできないな」「嫌だな」と思うようになりました。しかし、ずっと「農家をやらなきゃいけない」という空気の中で育ってくると、他の社会のことを全く理解していなかったので、違う仕事が1つも考えられない状況で。なんとなく親に言われるがまま農業の世界に入ることになりました。
ーーーありがとうございます。 そういう背景で、中標津で酪農をやっていた大輔さんが、何かのタイミング・何かのひらめきで、いきなり小麦や大麦の生産を始められたのですよね。そのきっかけというのは何だったのでしょうか。
嫌々とはいえ、どうしても仕事はしないといけなかったので、「牛を飼う」という仕事をずっとやっていたのですが、なぜか農協の中の青年部という組織の役員になっていたのです。そして、気づいたら北海道の農協青年部の副会長という、かなり大きなポジションにいました。そして、その農協青年部なのですが、組織論みたいなことをやっているのです。
例えば、ずっと昔から、青年部での大きな仕事の中に「消費拡大運動」というものがあるのです。牛乳を飲んでもらうために、街角に立って、何かのイベントと共に牛乳を無料で配って 「皆さん、どうぞ牛乳を飲んでください」と呼びかけるような運動をしていたのですが、僕には違和感しかありませんでした。
「おそらくこの人たちは牛乳を買わないだろうな」と想像ができるような人たちがタダで牛乳を持って行くのです。なぜコストをかけて作った牛乳をタダで配るのか。買ってもらわなきゃ意味がないわけです。「なんとか牛乳を買ってもらいたい」という思いから、1人でいろいろ考え始めるようになりました。
そうして考えていた中で出てきたのが、小麦の話です。中標津というのは非常に気候が冷涼で、酪農しかできないと言われているような場所だったのですが、昨今の気候変動で中標津もかなりあたたかくなってきています。そんな環境で小麦をつくったら、中標津産小麦100パーセントのピザができるんじゃないかなと16年前ぐらいに思いつきました。
そこで、みんなに失敗すると言われたのですが、小麦の種を蒔いてみたのです。そうしたら、できたんですよ。
普通の農家は小麦をつくったら出荷して終わりなんです。その後、その小麦がどこに行くかというところまでを冷静に考えている農家というのはいません。でも、僕の目的は「中標津のピザを作る」ということだったので、当然買い戻しをして全て粉にして、すぐパン屋さんとか飲食店さんに相談をしに行きました。すると、すぐに商品が続々と生まれ出しました。
そこには、牛乳を搾っていた時には1つも感じなかった感覚がありました。
というのも、牛乳は搾ったら集荷してもらって、あとは大手の乳業メーカーに行きます。そこで一体何の乳製品になっているのか、僕らにはわからないんです。一方で小麦粉は、自分が製粉してもらったものがパンになったりピザになったりラーメンになったりする。
もちろん作っているのは専門の方々です。僕が小麦粉をつくって、その後は専門の人に任せると、非常に美味しいパンやラーメン、ピザができたんですね。そうすると直接消費者から「美味しい」という感想を言っていただけるようになって、そこで初めて「農業は面白い仕事だ」と思い始めました。それが40歳くらいの時の話です。
ーーーすごい!40歳で始められたのですね。
今53歳になられているということで、先程のピザの話を想像して、ここからお酒をはじめ食卓の中のいろいろなものに拡張していくフェーズに入っていくのかなと思いました。ちなみに小麦を最初につくった時、どのくらいのサイズでやったのですか。
5ヘクタールです。
ーーー5ヘクタール!北海道はいきなり5ヘクタールでいきますからね。すごいな。
東京ドームの面積くらいですね。5ヘクタールより小さい面積になると面倒になってしまうので、いきなりそのくらい大きな面積からつくり始めます。
ーーーありがとうございます。今後の「農業」の話の中で、すごく大事な指標・尺度だったと思います。ぜひ皆さん、このプロ視点の数字も意識していていただければ嬉しいなと思います。ちなみに、その5ヘクタールから始めた小麦ですが、今はどれくらいつくっておられるのですか。
小麦は今、3品種で30ヘクタールぐらいです。
ーーーいや、すごいな。ありがとうございます。小麦はそんな感じで3品種ある。3品種で30ヘクタールっていうのがポイントだったと思います。
ここから大麦とか、食卓の中の”農業”のイメージが大輔さんの中でどう変わっていったかという話に触れていきたいと思います。40歳になって農業の楽しさが見えてきましたという話でしたが、大麦を始められてからはどのくらいになりますか。
大麦はほぼ小麦と並行してやっていたので、始めてから10年ちょっとは経っているかなとは思いますが、 あまり自分の歴史に興味がないのでざっくりしてます。
ーーー了解です。同じ時期だから40歳にしときます。
小麦と一緒に大輔さんは大麦も始めたと、 こんな飲み会で歴史が決まっちゃいました(笑)。では、5ヘクタールで始まってから現状に至るまで、食卓をイメージした話とそれらを拡張していくお話を、丸投げしてしまっていいでしょうか。
はい。さっきのピザの話というのは、その地方の町の経済の話につながります。つまり、 僕ら農業者だけが仮にうまくいって儲かっていたとしても、町の人口がどんどん減っていったり 知り合いが中標津に来ても連れて行く飲み屋が1軒しかなかったりするような町にはしたくなかったんですよ。
北海道というのは本州から見たら食料供給基地みたいな扱いになっているのですが、地域の人、 もしくは地域に来る人を増やすにはどうしたらいいかということを考えた時に「食文化」を作りたいと思いました。
この街に来ないと接することができない食文化を作れば、おそらく物を動かすという運賃が発生せずに、旅行しながらこの街に来てもらえる。そういう発想で事業を考え始めて、 「夜ピザを食べながらビール飲みたいよね」ということでピザができたんです。その時に小麦ができたから大麦もできるんじゃないかと思って、大麦も始めた。ほぼノリです。
大麦を作ってみてよくわかったのは、大麦というのは小麦よりもはるかに条件不利地で作る作物なんだなということです。先ほど言ったように、中標津って非常に気温の低い地域なのですが、大麦はそこに非常に合っている。この10年以上、大麦を作ってきた歴史の中で分かってきたことです。
加えて言うと、小樽ビールというところに委託して、作った大麦で「中標津ビール」というものを2回ほど作ってもらって地元に供給したことがあるのですが、そこでまた現実にぶち当たったんですよ。
大麦300キロでビールが2000リッターできてしまうんです。委託ですので、2000リットルを一気に出してこられるんです。クラフトビールなので当然、賞味期限は1ヶ月とか2ヶ月しかない。
当然1〜2万人ぐらいの町でそれを売り切るというのは不可能なのですが、 地域が非常にネガティブだったので、畑に種をまいたらお酒ができるんだということを知ってもらうために、あえてビールを作ったっていうところはあるんです。
ただし、こんなに畑がたくさんあるのに、大麦300キロで2000リッタービールができてしまうってことは、ほんのちょっとの面積でも十分ビールができてしまう。これではちょっと事業性が低いということで、一旦ビールを置いて、この国産のお酒の原料をどうしようかということに若干シフトしながらここまで考えてきています。
ーーーありがとうございます。ちなみに、5ヘクタールからスタートした大麦は、今や45ヘクタールになっていると。しかも来年まで予約販売で終わっていると。 キャッシュのところとか農家さんのすごい大変なところとかも、一瞬で乗り越えられている。これ想像できてた人いらっしゃるのかな。
10年前からこんなことやっておられる方がいるんだと、初めて聞いた時、めちゃくちゃビビりましたね。 中標津クラフトモルティングジャパンとウイスキーとの接点も生まれ始めたというところなのかなと思います。
前編記事はここまで。
後編記事では、ゲストのお三方がどのようにして出会い、地域の賑わいづくりに繋がっていったのかという話が登場します。ぜひ後編もご覧ください。
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主に20代のウイスキーが大好きな若手で構成される編集部です。さまざまな蒸溜所、つくり手、ファンの方々との交流をもとに、これからのウイスキー業界を盛り上げる活動を続けていきます。Twitterも発信中。フォローは以下のアイコンをクリック!
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