2017年にウイスキーの製造をスタートさせた嘉之助蒸溜所。歴史ある焼酎メーカーが、ウイスキー製造を始めた背景にはどのようなストーリーがあるのでしょうか。代表取締役社長の小正芳嗣さんにお話を伺いました。
1. 祖父・嘉之助さんとのストーリー
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本日はよろしくお願いいたします!
早速ですが、はじめに小正さんの生い立ちやウイスキーに目覚めたきっかけなどからお話をお伺いできますか。
小正さん(以下敬称略):
よろしくお願いします。生い立ちですね…。僕は昭和53年生まれで、三人兄弟の真ん中。上に姉がいて下に弟がいます。うちの祖父母とは家が隣合せで、廊下でつながっているような形だったので毎日のように顔を合わせていました。
朝、学校に行く前には、廊下を通って祖父母に挨拶して、仏壇に手を合わせてから学校に行く感じでしたね。あと、毎晩のように一緒に食卓を囲んで食事していました。
祖父・嘉之助さんは戦争上がりなんです。厳しい戦争体験をしてきていまして。最後がインパール作戦っていう、いわゆるビルマ、ミャンマーでの戦いですね。お調べいただくとわかるのですが、生き延びた人間の方が圧倒的に少ないという場所で終戦を迎えたそうです。
その後、2年間捕虜になってから鹿児島に帰って来たという、そんな人でした。ちょうど腕の関節のところに鉄砲の球がめり込んでいて、よく触らせてくれましたよ。「触ってみ〜」って。すごいでしょ?
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すごい経験をされたお祖父様ですね…。
小正:
祖父は戦争から帰ってきてから、家業である小正醸造を継いでいます。祖父の父親であり創業者の市助さんは残念ながら戦争中に亡くなったんです。
戦死したのではなくて、祖父が戦争に行っている間に病気で亡くなっちゃったんです。その代わりに祖父の母親が、家業を守っていたんです。
祖父は2年間捕虜になってから帰国したので、生きているなんて思いもしなかったと、周りからすごくびっくりされたみたいですね。
そういう状況で戻ってきて家業を継ぐわけです。もともと焼酎の製造業がスタートで、最初は米焼酎をつくっていました。どちらかというと鹿児島の焼酎は「芋」のイメージがありますが。
加えて昔は、焼酎って低俗なお酒というか、労働者のお酒というか、そのようなイメージが実は強くて。そんな中で、当時は米という貴重な穀物を使った焼酎を、いわゆる「高級酒」という観点でつくっていたようです。
その当時も、戦後だけどお酒を飲む習慣はあって。鹿児島って日本酒をつくっているところは限りなく少ないのですが、日本全国では日本酒というのは高級酒だったので、酒税も高かったのです。
逆に、焼酎は安すぎたんです。祖父は、そんな状況からなんとか脱却できないかと模索を続けていました。そこでヒントにしたのがウイスキーでした。
ウイスキーは、透明のホワイトスピリッツから生まれ、熟成させることでブラウンスピリッツという形になって、付加価値がつく。
そんなところから着想を得て、同じ蒸留酒である焼酎も樽に熟成させたらもっといいモノになるのではと。そこで昭和26年に樽熟成の焼酎の開発に着手。6年後の昭和32年に日本初の樽熟成米焼酎「メローコヅル」という商品を販売しました。
当時の話を聞きますと、やっぱり焼酎というのはホワイトスピリッツなので、大体つくってから1年以内に飲まれる・安いというのが普通のイメージなんですよね。そんな中、焼酎を樽に寝かせて、一般の焼酎に比べれば大分値段も高い状態で販売をしていました。
周りからは「こんなもの売れるわけがない」「焼酎を樽に寝かせるってウイスキーもどきだ」とかも言われたようです。普通だったら1年以内に売れるものを6年も樽に寝かせて販売をはじめたわけですから、見方によってはその間はお金を寝かせているようなものじゃないですか。だから道楽にしかできないよと 「小正の道楽」 と揶揄されたらしいです。
でもそれが店頭に並んでから、特に県外のお客様の間で非常に評判になりました。旅行に来て焼酎を買おうという時、焼酎の中に高級酒がある、しかも樽で寝かされているんだということで買っていただけるようになりました。県外の方から徐々に注文が入ってきたというのがメローコヅルという商品のひとつの歴史です。
「メローコヅル」という名前は、わたくしどもの代表銘柄「小鶴」から来ています。「小鶴」が「寝かされた」ということで、熟成あるいは丸みのある円熟とか、そういう意味合いのある「メロー」を付けて「メローコヅル」となりました。当時で言うと”横文字”ですからね。なかなか勇気ある決断だと思います。
そこが、結果的にはわたしがウイスキーをはじめた一番のきっかけですね。そういう財産を祖父が遺してくれたからこそ、樽熟成におけるノウハウがあったり、あるいは現場が抵抗なく樽を使ったりしていましたからね。そういうノウハウをウイスキーという蒸留酒の中で考えて使っていきたいとなったのは、やはり「メローコヅル」という商品のおかげですね。
やっぱり「日本ではじめてやった」というのが、勇気あることだったと思うんです。自分たちがつくってきた、鹿児島で生まれた焼酎文化の中に、新たな一石を投じたという祖父の勇気ある行動。バトンを渡された者としては、蒸留酒文化の価値をより高めたいというその想いを、少しでも受け継いで、次世代に何らかの形で残すことができたらなという風に思いますね。
2. お酒の仕事を “継ぐ”
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小正さんは、幼い頃からお祖父様の影響を受けていらっしゃるのですね。
小正:
そうですね。実は、うちの会社は結構いろいろありまして。幼少期には、非常に会社の業績が思わしくなかった時代を過ごしています。焼酎ブームによって息を吹き返すきっかけもありましたが。
嘉之助さんって技術屋なんですね、わたしと結構似ているところがあるんですけども。小さい頃から祖父の背中を見て、祖父はあんまり飲まなかったんですが、「お酒の仕事をやっているんだろうな」というのは分かってくるわけですよ。
そして業績が思わしくないみたいな空気感も自然に感じたんでしょうね。当時10歳くらいかな。勝手ながら「よっしゃ、俺がやったるわ」っていう、何とか助けになればなっていう気持ちで「跡を継ごう」と思いました。
別に、周りに継げと言われていたわけじゃないです。ただ、わたしの名前は「芳嗣(よしつぐ)」っていうのですが、「嗣」ってよく長男に使われるんですよね。跡継ぎとか後継とかいう意味で。そういうこともあって勝手に変な使命感を持ちまして。
さらに、わたしは5月3日生まれなんですよ。数字で書くと503。「コマサ」って読めますよね。怖えなと思っていましたね、僕がやるしかないじゃんみたいな(笑)。そうやって自分に自ら暗示をかけていましたね。
中3のときに祖父が亡くなって、祖父が進んだ方向に行きたいなと思って祖父が行った高校を受験して無事に通りました。学生時代は元気活発でした。中学はバスケ、高校はラグビーで、大学はアメフト。肉体系のコンタクトスポーツばかりやってきましたよ。なんかストレスが溜まっていたのか、爆発したかったんでしょうね(笑)。
嘉之助さんは技術屋だから、想いは強いけど数字が弱い、というのかな。父親は、どっちかというと総務的な人間でした。自分はどっちも見ることのできる強い人間にはなりたいなと思っていたんですけれども。経営とか数字まわりは後からでも勉強できると思ったし、理系だったので大学は技術系のところから学びたいと思っていました。
国公立の農学部とかを考えていたのですが、高3の時に東京農大を知ったんですよ。醸造学部があって、お酒に留まらず、みそや醤油や納豆…ありとあらゆる醸造・発酵というものに携わる、そういう学部があるというのを夏頃知りました。それで、推薦で行けることになりました。
大学時代は楽しかったですよ。今も横の繋がりがあります。日本酒の蔵元とか、焼酎の蔵元、酒屋、小売りのほうの息子・娘とか。同じ境遇の人間が東京の地に集まるってなかなかないじゃないですか。すごく狭い境遇っちゃ境遇だけども、大体抱えているものは似ているんですよね。
研究室とかって大学4年に入るんですけれども、そういう時に実験とか行いながら酒を持ち寄って研究室内で飲んだりしていました(笑)。
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楽しそうですね!お祖父様はあまり飲まれなかったということでしたが、お父様はどうなのですか?
小正:
好きかどうかって言ったら違うかもしれないですね(笑)。わたしはどっちかというと飲むのも好きではあるんだけど、単に酔うための酒という感覚よりも技術屋目線が入るんですよね。そういう風に深堀りしちゃうタイプ。どうやったらこの味が出てくるのかなとか。
大学卒業してからは、農大に残って2年間マスターで実験をしながら修士論文の作成を行いました。研究テーマは「本格焼酎の熟成に関する研究」でした。そういうのも今思えば、活きているのかな〜。だから、新しい、見たことない・感じたことないような酒質づくりは大学時代で学んだところですかね。
幼い頃のお祖父様との思い出から、大学時代のお話まで…!
小正さんの「お酒づくりの原点」とも言えるライフヒストリーでしたね。
次回は、現在の積極的な事業展開につながる「海外」のお話を中心に伺います。
ぜひご覧ください。
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主に20代のウイスキーが大好きな若手で構成される編集部です。さまざまな蒸溜所、つくり手、ファンの方々との交流をもとに、これからのウイスキー業界を盛り上げる活動を続けていきます。Twitterも発信中。フォローは以下のアイコンをクリック!
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